スニーカーブルース

2003年7月27日
かつてスニーカーを五万とかいう値段で売る店があった。
父親を拳銃で殺されてしまうという悪夢は、スーパーヒーローが持つある種の、人生の呪いの側面を露にする。
彼の為に作られたスニーカー、神と言うに相応しい滞空時間は、彼の浮かんでいる時間の流れと、僕が認知している時間の流れの差、彼にとって飛んでいる時間のロマンティックはどのように感じられるのだろうか?
相対性理論を肌で感じる瞬間であった。
なんでスローモーションみたいなんだろう!?
お触り(タッチ)禁止ってルールのもたらした奇跡。
奇跡がスニーカーをかつ上げ、定価以上で売られる商品的付加価値を生む。
すでに終わってしまっている商品の断末魔的経済時代で、これこそ詩的経済活動、暴力と死と、象徴じゃなくて等価交換だ。
当時乱立したスニーカーショップは、どれだけ生き残ってるいるのだろうか。

原宿はかつて暴力と死的経済の町であったというイメージがある。
修学旅行生は、わけのわからない意味の無いチケット類を、かつて田舎の中学に通っていた、短絡的な成功願望で、もともとブリキ缶みたいな頭が都会に出てきたことによってますます空っぽになっていく類の若者から、買わされていた。
まるで時代が終わり、薩長の人々が自らを中心と幻を見ていた頃、江戸のいなせを理解できなかった自らの粋の無さを晴らす復讐のように。

そして周辺のゲーセンでは、彼らは原中の連中にかつ上げされていた。
原中、今はもうなくなってしまった都会の中学校だ。
僕らは誰が誰をかつ上げしているのか知っていた。暗黙の了解のようなものだ。
僕はまったく関係なかった。搾取する側とも、搾取される側とも。
ただ関係が無いという平和に属していた。

死、それは新たな死による利益により全体的に塗り替えられ、忘れ去られる。
当事者達は、肉体的死が永遠の死として迎えられるまで、記憶の死として精神が蝕まれるのだ。
まるでくもの巣にかかった蛾のように、緩慢な死を待つ生きる存在に覆いかぶさる自由を失う呪われた存在として。
目の前の紐が、天国から届くものとはとても信じることの出来ない死のように。

よく、隅に置けない人、楽しい人、という評価を得る。
そういう評価には素直に応じる。罪の無い冗談などを添えて。
しかし、彼らは、僕が一人で一日2〜3リットルの発泡酒を消費していることを知らないのだ。知られたくも無い。しかし、それを言わずにいられない。
今日も、隅田川の花火の炎に、それが喜びとして正しいと言うことは承知しているが、自らの不運の呪いの炎が美しく夜空に舞い、その美しさが、少なからず人を恐怖に陥れられるように。それがオレ様の呪いでありますように。

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unk

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